震えをおこす/呪いとグルーヴ:BricolaQ『演劇クエスト・京急文月編』

 大谷能生は「それまで無関係だと思っていた過去が突然のようにつなぎ合わされ、一つの現在となって鳴り響くこと。現実に流れる時間のなかで、複数のものが一つになり、一つのものが複数に分岐してゆく(中略)ような振動状態」を「グルーヴィー」であるとした(『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』2013年 本の雑誌社、p.16)。ブレイクビーツを丁寧に解説してきたこの「二つになる一つのもの(グルーヴとは何か?)」と題された文章にはここでグルーヴの定義が置かれ、後半でその概念が大きく拡張されていく。音楽はもちろんダンスや演劇、キスやセックス、あるいはさらに単純な、話す、聞く、といった行為にまで。


 BricolaQ 『演劇クエスト・京急文月編』は7月12日(土)に三浦半島を主な舞台として上演された。参加者は井土ヶ谷の BlanClassで「冒険の書」と「プレイヤーカード」を受けとり、「冒険の書」に従って三浦半島を、主に京急電鉄線を利用して「冒険」していく。

 「冒険の書」はゲームブック風に作られていて、段落番号を付与された文章が、けれど読む順番としてはランダムに配置されている。ある文章の続きを読むには、段落の最後(あるいは途中)で指示される段落番号を追っていかねばならない。続きが二つ以上指示されていれば、そこで物語が分岐する。先は見えないけれど、前へ進んでみるとすこし先までは見えるようになる。

 「プレイヤーカード」として参加者に配られるのは二枚のカード、大アルカナのタロットカードと、その解釈が記されたカードである。この「プレイヤーカード」を「呪い」と表現したのが BlanClassで出発前に上映されたスライドだったのか、タロットを配布した落雅季子だったのかははっきりとは覚えていないけれど、落だったのではないかと感じる。

 解釈が記されたカードにはそのほかに、「あなたの設定」「質問」が書かれている。「冒険」中つねに念頭に置いておく様に指示されるこの二つの言葉はかわいらしいようでいて、けれどその実、まさに参加者にかけられた呪いそのものだ。なぜなら普段いわば「いつもの私」としてだけあるはずの参加者は、これらの言葉によって二分されて「いつもの私」と「設定に従う私」とを行ったりきたりすることになるからだ。呪いは参加者自身をグルーヴィーな状態にする=参加者の内面を二分して、互いに出会わせる役割を果たすことになる。

 大谷によればたとえば演劇について、「ある社会で暮らしているある人間が、それとは異なった状況を演じてみせること」もまたグルーヴィーである。「自分が自分のまま、異なった存在としてあることへの可能性。舞台の上にはそのような経験を載せることが出来る」。対して呪いは舞台上の人物ではなく参加者自身を二分させて、そのような経験をさせる(かもしれない)。(いつもの)私と(設定に従う)私とが分けられて、しかし時折出会うような状態はすでにグルーヴィーだし、そこへさらに他者との出会いがあるようなら、それはさらに大きなグルーヴを生むだろう。

 このような呪いのはたらきは、単独でよりも、本作のテーマである遊歩の振舞いへ参加者を近づけるものとして効いてくる。(遊歩者がそうであるように)参加者がその内面を二分されたまま三浦半島を遊歩するのを助けるために仕組まれていた。


 僕がひいたタロットは審判の逆位置、設定は「大切な人とけんか中」。質問は「今まででいちばんつらかった仲違いは、どんなものでしたか?」だった。

 個人的な話になるけれども、金沢八景をこのような形で訪れることになるとは思っていなかった。初恋の相手がこの町に住んでいたのだけれど、横浜より西へ僕が足を踏みいれることは高校卒業まではついになかったのだった。僕たちはおなじ部活の同期で、僕たちの代はひどく他愛のない(そして当時の自分たちからすれば、どうしようもなく深刻な)けんかばかりしていた。それはもういちばんではないけれど、自身の内面を二分するには十分な材料だった。

 当時の具体的なエピソードを思いだしたのは上演が終わってからのことだけれど、その意識が置かれていなくても僕はその日、通りがかりの犬に吠えられて財布を落としたおばさんの小銭を拾ったり、列車の先頭に座りたそうな子供に席を譲ったり、角打ちで中瓶を空けていく男たちと肩を並べたり、ゲーセンにマイダーツをもってきてひとり練習する学生のとなりで下手なダーツを投げたりしたのだろうか。あるいはひとりで「冒険」するつもりがパーティに加わり、最後には 8人ばかりでテーブルを囲んで飲むようなことを。けれど少なくとも BlanClassに戻ったところで、魔女に頼みこんで「けんかしている人と仲直りできるか」占ってもらうようなことをしたからには、なにか呪いによる震えがあったのに違いないのだ。