気配の所在:贅沢貧乏 家プロジェクト『タイセキ』

 贅沢貧乏 家プロジェクト『タイセキ』は 7月 7日(月)から 27日(土)まで、週一日の休演日を置きながらほぼ毎日上演中。場所は西大島の一軒家。詳細な位置は公開されていない。西大島は錦糸町や亀戸の近く、新宿からは都営新宿線で 20分とすこしかかる。都営線は駅間が短くて、トランジットのひとつとしてよりも生活移動の手段として、人々が乗りこんでいるように見えた。

 駅前で集合、スタッフのガイドによってまっすぐな川を越えて、「小名木川駅前」交差点でセブン&アイグループの商業施設「アリオ北砂」を横目に住宅街へ。いくつ角を曲がったか数えるのをやめようか考えだした頃、二階建てのその家にたどり着く。

 姉妹がおもに登場する。生活が脱ぎ捨てられ、積み重ねられていくさまとか、スポットを扱うタイミングは見事だし、舞台装置は予想していたよりも演劇的だった。物語じたいへはあまり僕は入りこめなかったけれど楽しんだ。

 気になったのは観客が何者としてそこにいたのかということだ。家の片隅で息をひそめて眺めている様はたとえば甘もの会『はだしのこどもはにわとりだ』における観客にも似ている。けれど本作においては観客自身の身体がその場を占めていることがより強調され、自覚させられる。その感覚が観客の劇への没入感を阻害しもするし、その場に確かにいるのに役者たちからは見えていない、妖精のようなもの=観客としての自身をより認識させられもする。

 観客は演出の山田由梨が許す限り(舞台≒客席としての家のなかで、山田ひとりが自由に動きまわって観客に、移動を促したり、ほのめかしたりする)、家のなかの好きな場所を客席として過ごすことができる。360度が舞台、という感想が散見されるように、家のなかでの観劇に臨んであらためてわかるのは、ひとつの建物のなかでの、あるいはなかからの、気配の伝播のしかた、気分や振舞いの伝わりかただ。

 立教大学新座キャンパスで行われたにれゆり『新座キャンパスで、かもめ。』を参照する。大学の一キャンパス全体を舞台に上演された『新座でかもめ』ではキャンパスという広い場所全体を舞台にしたために、一所で起こった感情や振舞いが必ずしもその瞬間には他所へ伝播しなかった(そのことによる良さも多分にあった)。家という小さな空間では良くも悪くも不十分に伝わってしまう。ひとつの場所のなかでつねに演劇が継続されていて、観客がそのなかで観劇する物語を(完全に恣意的に、ではないにせよ)選択する自由を持つ、しかもそのなかで主軸となる動線/物語の流れが観客に示されている、点で両者は共通しているが、感情や振舞いの伝達=コミュニケーションの早さ、あるいは親密度、という点ではコントラストが表われる(これはどちらがより良い、ということではない)。この家で実際にレジデンス製作しているという、その生活感との重なりも感じられて、それはとても良かった。


 妹が「お父さんはなぜこの家を買ったのだろう」と姉に問いかける場面がある。

 会場の側にあるアリオ北砂は 2010年、貨物駅であったJR小名木川駅跡地に建設された。交差点はその名残りである。小名木川駅へはまっすぐな川=小名木川から水路が引きこまれ、鉄道から水運への荷渡し場としても機能したらしい。その小名木川は旧中川と隅田川をつなぐ古い運河で、その歴史は江戸時代まで遡るのだという。長く物流と近しい町だったのだ。

 父親がなぜこの町を選んだのかは判然としない。けれどこの町に堆積してきたものを積極的に選んだ結果でないことは想像できる。商業的なものとプライベートなもの、以外のものを堆積させることは難しいし、させられたとして、東京で住む場所としての評価にはなりづらい。けれどそこへ堆積してきたものの気配が父親にこの家を選ばせたのかもしれない、と思って一軒家を出た、その塀にかかっていた表札はもちろん、舞台に登場した誰の名字でもなかった。