出会いとシーケンス:池田拓馬× 居間theater 『居間 theaterと巡る、池田拓馬の世界』

 パフォーマンスギャラリーツアー『居間 theaterと巡る、池田拓馬の世界』は 7月4日(金)に 3回、5日に 2回行われた。6月14日(土)から 7月6日(日)にかけて谷中 HAGISOで開催された池田拓馬の展示「主観的な経験にもとづく独特の質感/解体」のギャラリーツアーをパフォーマンスを交えて行う試みである。

 定員は各回5人で、観客はいちどギャラリーで展示を観たあと別室に移動して池田拓馬による解説を聞き、ふたたびギャラリーであらためて展示と向きあう。

 展示の説明が必要だ。池田拓馬による展示「主観的な経験にもとづく独特の質感/解体」では HAGISOのギャラリースペース(カフェスペースと隣接。柱と梁はあるものの壁面と天井がないので、カフェスペースや吹抜け部分とは空間的に区切られない)に壁面と天井を仮設し、そこから四辺形をいくつか切りとっている。これら四辺形はプロジェクタをななめに投影した際にできるいびつな形をしている。切りとる様子は映像として撮影され、ギャラリー内に設置された当の四辺形へ投影される。つまり既に切りとられた四辺形へ、まさにその形を池田が切りとる様子が、等倍で映るのだ。ギャラリーの中からは 4つの四辺形をした穴と 4つの四辺形の板(映像が投影される)を見ることができる、ということになる。

 池田は別室での解説で、この作品が「主観的な経験にもとづく独特の質感」と「主観的な経験にもとづく独特の解体」という 2作品によって構成されていると語っていた(「/」を「スラッシュ」と読んでいたことを印象的に覚えている。)。つまり四辺形の穴があいた壁面天井と、切りとられた四辺形が「質感」であり、四辺形へ投影された映像が「解体」であるという。「質感/解体」において投影されることによってこれら二作が出会い、「今いるここはどこなのか」についての感覚を揺さぶる。


 ギャラリーツアーには池田拓馬と山崎朋しか登場しない。というのは、解説がなされる別室にはかわるがわる居間theaterのメンバーや池田本人が現われるものの、彼らは全員等しく池田拓馬を名乗るからだ(パフォーマーとして現われる山崎朋だけは一言も発さず、名乗りもしない)。

 飲みものを供してくれた池田拓馬が退出したあと、観客とともにテーブルにつき、池田のプロフィールと今作に至るまでの経緯をもっとも詳細に語るのは池田拓馬(稲継美保)だ。「私とはなにか」から「今いるここはどこなのか」に展開した作家の問いを聞かされながら、それを語る「私」が「私」ではない事実に攪乱される。

 稲継と入れ替わりに入ってくる山崎は、けれど、テーブルにはつかずにゆっくりとしたパフォーマンスを行い、そのまま退出する。それから池田拓馬(池田拓馬)が入室し、今作についての説明をしたあと、観客をふたたびギャラリーへ案内する。

 「今いるここはどこなのか」という問いは、映像を含む作品においては「今いるここはいつなのか」という問いもまた内包している。今という言葉自体は伸縮性をもってある時間のシーケンスを示すものだけれども、映像もまた切りとられた時間のシーケンスであって、ためにかならず対比が生じてしまうからだ(映像に没入できる構造になってさえいなければ)。「質感」のうえに「解体」が投影されることによってふたつの「今ここ」が出会い、また引きはがされる(四辺形へ投影された映像のなかで四辺形は取り外されてしまい、その後は壁の向こうの空間が映されることになる)。切りとられた四辺形に穴や傷がつけられているのはおそらくそれを強調するためで、この穴は映像のなかで池田によってつけられていく。

 映像はそのまま続いて、やがて壁の向こう=四辺形のなかをゆっくりと、別室でのパフォーマンスと同じくらいの速度で横切る山崎の姿を映す。けれど壁に実際にあいた四辺形の空洞の向こうを見ると、やはりそこにも山崎がいて、実際にも視界を横切っていくのだ。

 ふたつの役割がある。映像の「今ここ」と現在の「今ここ」をふたたび出会わせる役割と、別室での解説とギャラリーでの体験を別個のものではなく、ひとつのシーケンスとして再認識(≒「解体」)させる役割だ。あるいは作品が「今ここ」を宿らせる先をギャラリーから HAGISO全体へ拡張した、ということもできるかもしれない。

 世界のなかを巡ったというよりは、作品からもうすこし先まで散歩に誘われたような感覚で、けれどそれをどう説明すればいいのか、まだよくわからない。