ほそい道:贅沢貧乏『ハワイユー』

 贅沢貧乏『ハワイユー』は西大島のとある物件で 6月 20日まで、およそ週 3日のペースで上演中。3作品を上演した「家プロジェクト(うちプロジェクト)」を後継する「家プロジェクト アパート編」の 1作目にあたる。「家プロジェクト」で一軒家を借り切ったのと同様に、「アパート編」では 2階 2部屋、1階はおそらく元住居兼店舗、の物件を借り切っているようだ。

 西大島の駅前で待ちあわせて、時間になったらガイドスタッフに従って南の住宅街へ、 15分ほどをかけて歩いていく。アパートの外のスペースで少しの説明を受けてその指示通りに、一人ずつアパートの 2階へ上がっていくことになる(なぜ一人ずつかというと、入口と階段がともに、すれ違うにも多少の慣れが必要なくらいの幅だからだ)。

 説明される「上演開始の合図」まではしばらく間があって、それがあるまで部屋のなかを自由に観察することができる。といっても部屋には既に家主の田井(大竹このみ)が帰ってきていて、すでに演技は始まっているから、合図まで立ち歩いている観客はあまりいないかもしれない。美術はよく作りこまれていて、日常にあり得る生活とほとんど区別がつかない(その大部分は実際に、そのまま生活に使っても差し支えないものだろう)。部屋の入口のふせんや壁に張られた手書きの申し送り、そして唯一不自然さを残すポスターなどから、田井のおおよその日常を事前に窺い知ることができる。合図が鳴って開演する。

 実際の生活にあり得ることだけが起こる。筆者が観ている贅沢貧乏の作品『タイセキ』『ヘイセイ・アパートメント』『みんなよるがこわい』ではリアルな生活の描写を軸にしながらも、ファンタジックな描写もまた必ず挿入されていた。例えば人間でないものが登場したり、その場に実在しないはずのものが置かれていたり、ある俳優の声が隣にいる(聞こえていないのが不自然な位置にいる)俳優に聞こえていなかったり、といったようなことだ。

 『ハワイユー』ではその類のことは(東京デスロック『東京ノート』のように、観客が俳優に(存在を知覚されながらも)徹底的に無視される、という一事を除けば)一切起こらない。二人の俳優はお茶を飲んでにんじんを食べ、花に水をやってトイレに行き、時おり電気を消して部屋を出ていく。コップを洗ったり服を着替えたり、電気を消し忘れそうになったりもする。起きた問題が解決するとは限らないし、だれかの決意に置いていかれることだってままある。そういった描写だけで今回本が書かれたのは、なにか変化があったからなのかもしれない、と思った。内容的には『みんなよるがこわい』からの流れを特に感じた。

 観客の体験がたいへん細かにデザインされていて、それがもっとも印象に残った。思い返してみれば公演のあいだずっと、いや待ちあわせた駅前からずっと、観客は本来可能であるはずの行動のうちほとんどを言外に制限されて、あるいはある種の行動を(一定の範囲で)強制されていた。わざと細い路地を使うアパートまでのルート取りも、アパート前で説明を行うその場所の設定も、入室後の振舞いについての指示内容も、概ねそのように機能したと言ってよいだろう。必ずしも観客に明示されない演技を、けれど少しずつ、できる限り目撃させる。観客の平常(観劇へ意識を傾けきらない前の状態)とまちの日常、そして上演とを断絶させないまま少しずつ開演するために敷かれたほそい道が用意されていたように思う。

 反面、終演があっさりと示されたので、帰りはかえって抜けきれずにふらふら歩いた。つい癖で、来た道を逸れて明治通りへ出ると、この町の違う面を偶然目にしたような心地がした。それを端緒になんとなく切り離されはじめた気になってそのまま、歩いて、駅の階段を踏んだくらいのところで、ようやく確かに終演したように思われだした。